- 夢って何ですか
- 2007年05月28日02:03
夢って何ですか/平久江祐司
先達て,つくばから東京へ向かう高速バスの中でS教授と同席し,
よもやま話をしていると,話題はいつしか学生の卒業論文の指導へと移っていった.
そうした会話の中で,とりわけ心を惹きつけたのが,
「大切なのは夢を持たせることだよ」
というS教授の言葉であった.
他人の肉声を通して聞く “夢”という言葉が,新鮮な響きをもって耳を打った.
その後も,バスに揺られながら
“夢っていったい何だろう”
という漠然とした思いが頭の隅に残ることになった.
考えてみると,素直に夢を語らなくなってどれくらいの年月が経つのだろう.
少年時代の奔放な好奇心に満ちた夢,
青年時代の情念や功名心に満ちた夢,
大人になっての現実から逃避したいというささやかな夢.
歳とともに夢は変質し,現実の諸相を帯び,
少しずつ語るべき言葉を失ってきたような気がする.
知らず知らずのうちに夢と欲望を混同し,手近な欲望の実現を夢の実現と錯覚してきたこと,
たぶん,この錯覚に気がついたことが“新鮮な響き”の理由にあるのだろう.
ところで,“夢”という字を「大言海」で引くとその語源は,
寝た目で見るという「寝目(いめ)」
あるいは寝て見る「寝見(いみ)」
のなまったものではないかと書かれている.
これは,「広辞苑」にある睡眠中に見る幻覚という意味の本来の語源である.
他にも空想的願望,心の迷い,将来実現したい願い,理想などとある.
ここで話題にしている夢の意味に最も近いのは “理想”だろう.
しかし,教育と理想,これでは少々大げさで堅苦しい.
むしろ,夢は仕事や遊びと結びつけ語られることが多いようだ.
脚本家の山田太一は,「遊びと夢の峠で」というエッセイの中で夢と遊びに共通する属性を
「日常を断ち切り再生させてくれるものへの欲求」 と書いている.
先達て,つくばから東京へ向かう高速バスの中でS教授と同席し,
よもやま話をしていると,話題はいつしか学生の卒業論文の指導へと移っていった.
そうした会話の中で,とりわけ心を惹きつけたのが,
「大切なのは夢を持たせることだよ」
というS教授の言葉であった.
他人の肉声を通して聞く “夢”という言葉が,新鮮な響きをもって耳を打った.
その後も,バスに揺られながら
“夢っていったい何だろう”
という漠然とした思いが頭の隅に残ることになった.
考えてみると,素直に夢を語らなくなってどれくらいの年月が経つのだろう.
少年時代の奔放な好奇心に満ちた夢,
青年時代の情念や功名心に満ちた夢,
大人になっての現実から逃避したいというささやかな夢.
歳とともに夢は変質し,現実の諸相を帯び,
少しずつ語るべき言葉を失ってきたような気がする.
知らず知らずのうちに夢と欲望を混同し,手近な欲望の実現を夢の実現と錯覚してきたこと,
たぶん,この錯覚に気がついたことが“新鮮な響き”の理由にあるのだろう.
ところで,“夢”という字を「大言海」で引くとその語源は,
寝た目で見るという「寝目(いめ)」
あるいは寝て見る「寝見(いみ)」
のなまったものではないかと書かれている.
これは,「広辞苑」にある睡眠中に見る幻覚という意味の本来の語源である.
他にも空想的願望,心の迷い,将来実現したい願い,理想などとある.
ここで話題にしている夢の意味に最も近いのは “理想”だろう.
しかし,教育と理想,これでは少々大げさで堅苦しい.
むしろ,夢は仕事や遊びと結びつけ語られることが多いようだ.
脚本家の山田太一は,「遊びと夢の峠で」というエッセイの中で夢と遊びに共通する属性を
「日常を断ち切り再生させてくれるものへの欲求」 と書いている.
再生とは,ある種の創造である.
つまり,夢は創造の源泉である.
つまり,夢は創造の源泉である.
また,それは,再生である限り,既成の枠を飛び越えるパワーがなくてはならない.
また,真剣さのない遊びもつまらない.
夢とか遊びとは切実さを伴うものでもある.
メディアを通じて,いわゆる団塊の世代には,
“夢がない,遊びがない”との指摘をよく耳にする.
これは,現在の子どもたちが置かれた状況でもあるだろう.
逃げ場のない絶望的な状況.深いニヒリズム.
では,学生に夢を持たせるとは.
狂言師野村万之丞は,「狂言の夢と遊び」の中で“芸に遊ぶ”ことの大切さを書いている.
ここでいう芸とは 「知」あるいは「学問」 である.
勉強と遊びという二元論からの脱却,「芸」の両義性などの指摘ははなはだ面白い.
確かにある種の夢は“あそび”であるといえよう.
また,教育の育,つまり育つことの本質には “まなぶ心”がある.
そこには理想や願望が必要である.
そこで,”夢”を “まなぶ心”と“あそび心”を結ぶ媒介と捉えたい.
つまり”夢”を持たせることは,
“まなぶ心”と“あそび心”を結びつける行為であると言えないだろうか.
“まなぶ心” と “あそび心が ”夢”によって編まれ一つのビジョンとして結実する.
すると,そもそも“夢”のきっかけを提供する教師そのものが,
たくさんの “夢”を持っていなければならないようだ.
これは大変なことだ.
しかし,”夢”について考える場や方法を提供することはできるかもしれない.
こうした捉え方は,無論,S教授の考えとは異なるかもしれないが,
S教授の話を聞くと何かできそうな気がしてくる.
いやまて.ここであまり安易なことを言うと,あとで取り返しのつかないことになりそうである.
旧暦では,三月弥生の月は “夢見月”とも言われている.
少し肩の力を抜いて,暖かな日差しの中で大いに読書をし,
かつ ”寝見”したいものである.
参照:河合隼雄,山田大一編『夢と遊び』岩波書店,1997,244p.[302.1:Ka‐93:10]
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本学・講師
What's your dream? by Yuji HIRAKUE
2年ほど前に、
きのう【夢】を見た/将来の【夢】
↑なんで指すものは違うのに同じ言葉なのか調べてたときに見つけたもの。
その疑問については軽くしか触れていないけど、おもしろかったのでブックマークしてた(んだと思う)。
久々に読んだら、あらためて、色んな意味ですごいなーと思いました。
リアリティ
また,真剣さのない遊びもつまらない.
夢とか遊びとは切実さを伴うものでもある.
メディアを通じて,いわゆる団塊の世代には,
“夢がない,遊びがない”との指摘をよく耳にする.
これは,現在の子どもたちが置かれた状況でもあるだろう.
逃げ場のない絶望的な状況.深いニヒリズム.
では,学生に夢を持たせるとは.
狂言師野村万之丞は,「狂言の夢と遊び」の中で“芸に遊ぶ”ことの大切さを書いている.
ここでいう芸とは 「知」あるいは「学問」 である.
勉強と遊びという二元論からの脱却,「芸」の両義性などの指摘ははなはだ面白い.
確かにある種の夢は“あそび”であるといえよう.
また,教育の育,つまり育つことの本質には “まなぶ心”がある.
そこには理想や願望が必要である.
そこで,”夢”を “まなぶ心”と“あそび心”を結ぶ媒介と捉えたい.
つまり”夢”を持たせることは,
“まなぶ心”と“あそび心”を結びつける行為であると言えないだろうか.
“まなぶ心” と “あそび心が ”夢”によって編まれ一つのビジョンとして結実する.
すると,そもそも“夢”のきっかけを提供する教師そのものが,
たくさんの “夢”を持っていなければならないようだ.
これは大変なことだ.
しかし,”夢”について考える場や方法を提供することはできるかもしれない.
こうした捉え方は,無論,S教授の考えとは異なるかもしれないが,
S教授の話を聞くと何かできそうな気がしてくる.
いやまて.ここであまり安易なことを言うと,あとで取り返しのつかないことになりそうである.
旧暦では,三月弥生の月は “夢見月”とも言われている.
少し肩の力を抜いて,暖かな日差しの中で大いに読書をし,
かつ ”寝見”したいものである.
参照:河合隼雄,山田大一編『夢と遊び』岩波書店,1997,244p.[302.1:Ka‐93:10]
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本学・講師
What's your dream? by Yuji HIRAKUE
2年ほど前に、
きのう【夢】を見た/将来の【夢】
↑なんで指すものは違うのに同じ言葉なのか調べてたときに見つけたもの。
その疑問については軽くしか触れていないけど、おもしろかったのでブックマークしてた(んだと思う)。
久々に読んだら、あらためて、色んな意味ですごいなーと思いました。
リアリティ
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